2009年07月01日

磐余彦は橿原宮で践祚され

辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。

神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。

神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。

神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
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神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
神武天皇76年、127歳にして崩御した。

父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。

『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。

2009年06月13日

ダークエネルギーはインフレーション宇宙論と密接に

ダークエネルギーはインフレーション宇宙論と密接に関係しているという点は注意が必要である。インフレーションはダークエネルギーと定性的に同様の、何らかの反発力の存在を前提としている。これによって宇宙はビッグバンの直後に急速な指数関数的膨張を引き起こす。このような膨張はほとんどの現在の宇宙論や構造形成論の本質的な特徴である。しかし、インフレーションは現在我々が観測しているダークエネルギーよりももっとずっと高いエネルギー密度で起きなければならないし、宇宙の一生の初期で完全に終わっているはずだと考えられている。したがって、ダークエネルギーとインフレーションの間にもし関係があるとしても、それがどのようなものなのかについては分かっていない。

もしも仮想的なダークエネルギーが宇宙のエネルギーバランスにおいて支配的であり続けるなら、現在の宇宙膨張は加速し続け、ついにはド・ジッター宇宙として知られる文字通り指数関数的な膨張となる。

このモデルでは、重力的に束縛されていない構造は見かけ上、光速を超える速度でばらばらに飛び去ることになる。宇宙に関する我々の知識は光速より遅く伝わる信号によってしか得られないため、この加速によって最終的には、現在見えている遠方の宇宙を見ることすらできなくなる。しかし、ダークエネルギーの密度が増えなければ、銀河や太陽系など現在重力的に束縛されているどんな構造もそのまま残る。したがって我々の地球や銀河系は、宇宙の他の存在が全て我々から離れ去ってもほぼそのまま乱されることなく存在し続ける。
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あるいは、ダークエネルギーは一定ではなく、時間とともに増えているかもしれない。「幽霊エネルギー (en:phantom energy)」と呼ばれるこのシナリオでは、宇宙に存在する全てのものは原子に分解され、最後にはビッグリップによって吹き飛ばされてしまい、構造のない空っぽの宇宙が残される。

また、最終的にはダークエネルギーは時間とともに散逸し、宇宙は互いに引き合うようになるかもしれない。このような不確定性があるために、やはり重力が宇宙を支配し、やがては宇宙が自ら潰れるビッグクランチに至るという可能性も残されている。しかしこれは一般的には最も可能性の低いシナリオだと考えられている。

2009年06月09日

後北条氏(ごほうじょうし)とは関東の武家

後北条氏(ごほうじょうし)とは関東の武家・戦国大名。本姓は平氏。家系は室町幕府の幕臣 伊勢氏の一門 伊勢盛時(北条早雲)に始まる。遠い血縁ではあるが、執権北条氏の直接の子孫ではないことから、後世の研究者らが鎌倉幕府の執権北条氏と区別して後北条氏ともいう。また、居城の名から小田原北条氏とも呼ばれる。家系は桓武平氏伊勢氏流。代々家督は御本城様と呼ばれ、「禄寿応穏」と刻まれた虎の印章を使用する。三つ鱗の家紋は蝶紋に準じた桓武平氏の代え紋で、北条・伊勢の両氏に共通する。後北条氏では高さを低く変形させて「北条三つ鱗」を主の家紋としている。通字は「氏」。
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室町幕府の御家人・伊勢氏の一族である伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が1476年の今川氏の内紛の際に甥の今川氏親を支援したことが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。この功績により氏親に駿河国興国寺城を与えられて本拠とし、力を蓄えて1493年に足利茶々丸の堀越公方を滅ぼした。この後、積極的に伊豆国を侵略して所領とし、下克上を現実のものとした日本史上初の戦国大名とされる。1495年(近年では1501年説もある)に大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城にて三浦氏の三浦義同を滅ぼして、相模国全域を征服した。宗瑞の子氏綱の時、名字を伊勢から北条に改め、北条氏を称した(遡って伊勢宗瑞を「北条早雲」と呼ぶのはこのため)。

先に述べたように北条氏の本姓は伊勢氏(備中伊勢氏)である。現在では伊勢氏は室町幕府に仕えた身分の高い一族であることが判明しており、関東支配において不利になる要素ではなかった。それでもなお北条の名にこだわったのは、鎌倉幕府を支配した執権北条氏の影響力を利用しようとしたためと言われている。氏綱から名乗った官途名左京太夫、氏康から名乗った受領名相模守も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗ったものを踏襲したものである。当主が左京太夫、隠居した際に相模守を名乗るのが通例だった。歴史研究家・小和田哲男の主張によると、北条氏は京都との接触を最低限に止め平将門以来、関東にある独立の願いを具現化することが目的としていたとされる。そのために関東管領職の継承を至上の望みとし、関東公方を君主とした関東独立国家を目指していたのである。

2009年04月25日

アブ・シンベル神殿

アブ・シンベル神殿(Abu Simbel)は、エジプト南部、スーダンとの国境近くにあるヌビア遺跡。
オリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。 大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。

建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。

1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘に移築された。このことが、世界遺産の創設のきっかけとなった。アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、世界文化遺産に登録されている。

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この神殿では、年に2回神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を明るく照らす。これを一目見ようと多くの観光客がその日に訪れる(場所を移した際にもともとの日から、1日ずれてしまったが)。その2回とは元は2/22と10/22である。ラムセス2世の生まれた日と、王に即位した日にこの現象が起こる。

アスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。

アブ・シンベル大神殿
ラムセス2世が建てたとされる。

大神殿の四体の像はラムセス2世で、その前に並んでいるのは家族の像である。 奥にはプタハ神、アメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神、そしてラムセス二世の像がある。

神聖化された聖なる船の前で儀式を行う場面が描かれている。 浮き彫りには王の業績、北の壁にはカディシュの戦い、南の壁にはシリア・リビア・ヌビアとの戦いが描かれている。

オリジナルは岩山をくりぬいた神殿だが、移動後はカモフラージュしたコンクリートのドームを基礎としている。

アブ・シンベル小神殿
ハトホル神と王妃ネフェルタリに捧げられた神殿。

立像が6体あって、そのうちの4体は王、2体はネフェルタリである。 脇には王子と王女を配置している。

2009年04月07日

DTMの長所・短所

通常の楽器演奏と比較した上でのDTMの長所・短所として以下の点が挙げられる。

長所
楽器が弾けなくても、パソコンの画面上の譜面に音符や休符を置いていけば、演奏可能となること。
楽器が弾ける人でも、自分のパート以外をパソコンに演奏させて、マイナスワン演奏(楽器版カラオケ)が楽しめること。それに関連して、特定のパートの楽器奏者が身近にいない場合、その代用として使えること。
自分の演奏をパソコンに記録し、記録したデータを容易に修正することが可能なこと。
インターネットを利用して演奏データをやりとりすれば、場所や時間を越えた共同作業も可能なこと。
一般的な「楽器」という定義にとらわれない音を生み出すことも可能である。
短所
音源により差はあるが、楽器の響きをコンピュータで出すので、実際の楽器の音を完全には再現できないこと。
通常の楽器演奏の臨場感を再現するのは困難であること。

DTMに必要なもの [編集]
パソコンとシーケンサーソフト
パソコンを中心とするため、パソコンとシーケンサーソフトは必須である。Windows・MacintoshのどちらでもDTMは可能だが、シーケンサーソフトの中には片方のOSでしか動作しないソフトもある。ソフトウェア音源の利用やパソコン上での音声データの編集等高速な処理を要する作業を行うのであれば高スペックのパソコンが必要となるが、そのような作業を行わないならば、対応OS等の条件を満たす限り1990年代のパソコンでも十分利用可能である。
音源モジュールもしくはソフトウェア音源
2000年代前半頃までは、パソコンでの処理速度や操作性を考慮すると音源モジュールは必須であると考えられていたが、現在ではパソコンの性能向上に伴い、ソフトウェア音源のみで処理することもできるようになった。新たにDTMを始める際で音源モジュールを選択する場合、音源モジュールは複数の音色を同時に再生可能なマルチティンバーのもので、一般的な楽器音が揃っているタイプが望ましい。条件に当てはまる音源として後述のGM対応の音源モジュールが挙げられる。
スピーカーまたはヘッドフォン
音源モジュールにはスピーカーがついておらず、音を出すために別途スピーカーまたはヘッドフォンが必要である。
MIDIキーボード
マウス等の入力装置でプログラミング(入力)することも出来るので、リアルタイムレコーディングを望まないのならば必ずしも用意すべきというものではない。
MIDIインターフェイス
一昔前のDTM音源モジュールはシリアル端子がついており、パソコンのシリアル端子とケーブルを接続するだけで利用可能であった。昨今のパソコンにはシリアル端子がついていないものが多く、旧来の音源モジュールを使う場合はUSB-MIDIコンバーター等MIDIインターフェイスが必要となる。ただし最新の音源モジュール・MIDIキーボードもUSBに対応する製品が増えてきたため、新たに購入する際はインターフェースは不要となることもある。

主なDTM機材 [編集]

シーケンサーソフトと音源モジュールを同梱したパッケージ [編集]
90年代初頭から各楽器メーカーから音楽ソフト(シーケンサーソフトやカラオケソフト)と音源モジュールまたは音源内蔵キーボード、そしてパソコンとそれらを接続するケーブル類をパッケージにした製品が発売されていたが、ソフトウェア音源の普及等の理由で2000年代ではほとんどのパッケージが生産完了となっている。

ローランド
ミュージ郎(2000年代前半で生産完了)
ミュージくん
ヤマハ
HELLO!MUSIC!
コルグ
Audio Gallery(90年代半ばに生産完了)
カシオ
日曜音楽(90年代半ばに生産完了)
カワイ
SoundPalette(90年代半ばに生産完了)

単品 [編集]
シーケンスソフト
代表的なシーケンスソフトを参照。
ex. Singer Song Writer, レコンポーザ, XGworks
音源モジュール
ローランドSCシリーズ・SDシリーズ
ex. SC-55mkII, SC-88Pro, SD-90(以上生産完了品), SD-20(現行機種)
ヤマハMUシリーズ
ex. MU50, MU80, MU100(以上生産完了品), MU2000EX, MU500(現行機種)
ソフトウェア音源
ローランドVSC・HQソフトウェア・シンセサイザー
ヤマハS-YXGシリーズ
MIDIキーボード
ローランドPCシリーズ
ex. PC-70, PC-50, PCR-M30 / M50 / M80
ヤマハCBXシリーズ
スピーカー
ローランドMAシリーズ
ex. MA-15D, MA-7A
ヤマハMSPシリーズ
ex. MSP3, MSP5A

DTMの規格 [編集]
演奏データを機器間でやりとりするための規格
MIDI
ReWire
ファイル保存形式
SMF
音色配列規格
GM メーカーの枠を超えた標準規格
GS ローランド社の社内規格。GMを押しのけ、DTMの事実上統一規格となっている。
XG ヤマハ社の社内規格。
GM2 GMの上位互換規格。

アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

2009年03月23日

樺太庁

樺太庁(からふとちょう、ロシア語:Южный Сахалин、英語:Karafuto Prefecture)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

1907年3月15日公布の、明治40年勅令第33号(樺太庁官制)に基づき、同年4月1日発足。これにより従来の行政機関である樺太民政署は発展的解消を遂げたと言える。庁舎は当初大泊に置かれていたが、1908年8月13日に豊原へと移転した。

1920年公布の、大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)ではいわゆる外地に組み入れられたが、その後の1942年には内務省管轄下に入り、国内法が適用されるようになった。これによって樺太はいわゆる内地へと編入された。

1945年8月のソ連対日宣戦布告によって、樺太庁管内にはソビエト連邦軍が侵攻し、同月末までに樺太全土が占領された。行政官庁としての樺太庁は、外務省への移管を経て、1949年6月1日、国家行政組織法の施行によって廃止されている
地理 [編集]
南の北海道とは宗谷海峡で隔てられ、北は北緯50度線国境でソ連と接し、西の間宮海峡、東のオホーツク海に囲まれていた。

産業 [編集]
第一次産業が基盤であり、漁業・林業・農業が主であった。また、後には製紙業・炭鉱も盛んとなった。人口が希少であった事から常に労働人口を欲しており、税法の優遇等により国内他地域からの移住を推進した。

歴史 [編集]
1907年3月15日 - 樺太民政署の改組により、4月1日樺太庁が発足。
1907年4月 - コルサコフ(大泊)・ウラジミロフカ(豊原)・マウカ(真岡)の3支庁が設置される。
1908年12月 - 豊原支庁シスカ出張所・真岡支庁ナヤシ出張所がそれぞれ敷香支庁・名好支庁に昇格して5支庁体制となる。
1913年6月 - 名好支庁が久春内に移転、久春内支庁と改称。10月にはさらに泊居へ移転、泊居支庁と改称。
1915年6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
1918年 - 尼港事件により北サハリン(北樺太)も占領したが、1925年に撤兵する。
1920年5月3日 - 樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件により、外地に組み入れられる。
1922年10月 - 支庁が再編され、豊原・大泊・留多加・元泊・敷香・本斗・真岡・泊居・鵜城の9支庁体制となる。
1924年12月 - 留多加支庁・鵜城支庁が廃止、出張所に降格して7支庁体制となる。
1929年6月10日 - 拓務省が発足し、樺太庁はこれへ移管される。
1929年3月26日 - 樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。
1934年12月 - 樺太深海村と北海道猿払村との間に海底ケーブル及び中継所設置が完了し、電話が本州と開通する。
1937年7月1日 - 豊原町に樺太市制が施行されて豊原市となる。豊原支庁は豊栄支庁と改称される。
1940年1月 - 恵須取支庁が設置されて8支庁体制となる。
1941年12月26日 - 日本放送協会豊原放送局正式に開局。
1942年11月1日 - 拓務省が他省庁とともに一元化され、大東亜省となる。これに伴い樺太庁は、内務省へ移管される。支庁が再編され、豊原・敷香・真岡・恵須取の4支庁体制となる。
1943年3月26日 - 樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件が廃止され、いわゆる内地編入が行われる。
1945年、4月以降に日本銀行が豊原事務所を開設し、駐在員を配置。
1945年8月9日 - ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦、8月28日全島制圧される。
1945年12月30日 - ソビエト連邦軍政下で行政執行にあたっていたが、解散を命じられ大津敏男長官を代表とする上級官吏が収監される。
1946年1月 - 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令(SCAPIN-677)により日本の施政権が停止される。
1946年1月30日 - 内務省官制改正等の件(昭和21年勅令第55号)により、樺太庁は内務省から外務省へ移管される。
1949年6月1日 - 国家行政組織法の施行により廃止される。

2009年03月08日

ロシアがドイツと講話を結ぶと

ロシアがドイツと講話を結ぶと、日本をはじめとする英米仏伊などの連合各国は革命の波及をおそれ、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でロシアに軍を送った(シベリア出兵)。ロシア国内の反ボリシェヴィキ勢力もこの情勢に活気づき、各地で反革命政権が成立したが、ソヴィエト政権も赤軍をつくってこれに対抗し、内戦状態となった(ロシア内戦、1918年-22年)。しかし、外国勢力とむすびついた反革命勢力に反発する人びとは赤軍を支持、1920年には赤軍勝利は疑いない情勢となった。

内線を戦いぬくため、ソヴィエト政権は食糧を強制的に徴発して、工場の国有化を進めた。これが戦時共産主義である。ボリシェヴィキはロシア共産党と改名し、国家を指導する唯一の党となった。内戦が終結にちかづくと政府は、食料税導入と税納付後の残余農産物を自由に処分してよいことを特徴とする新経済政策(ネップ)を1921年に採用し、食糧徴発をやめ、工場の国有化も緩和した。他方でレーニンらは、1919年、モスクワでコミンテルン(第3インターナショナル)を創立し、革命ロシアの指導のもと、各国共産党をコミンテルン支部とし、世界革命を推進しようとした。そして1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した。

レーニンの死後、ヨシフ・スターリンは、一国だけでも社会主義を建設することは可能であると主張し、政敵であるレオン・トロツキーを国外追放。その後、トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された。このようにして反対派をおさえて独裁的権力をにぎり、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。対外政策にも変化が生じ、ソヴィエト連邦が成立した1922年にはドイツとの国交を回復し、各国も相次いでソ連を承認した。

また、スターリンは1928年から行われた第一次五か年計画で強力に重工業の建設を推進し、同時に、農民をコルホーズなど集団農場に組織する農業集団化を強行した。飢饉による犠牲者も数百万に達したといわれるが、反面では、他の諸国が不況にあえぎ政治的に混迷しているとき、生産力を向上させて一大工業国に成長していった。

ソ連邦の存在は、それまで資本主義列強によってすすめられてきた世界の一体化を否定するものであり、なかでも一国社会主義路線の確立は、世界資本主義に敵対する国家の誕生を意味していた。しかし、ソ連は第二次産業革命という経済史上の趨勢から大きく逸脱したものではなかった。市場経済ではなく国家による計画経済であり、軍需産業重視のため豊かなアメリカ的生活スタイルともかけ離れており、また、政治的民主主義も形だけのものに等しかったが、先進資本主義諸国と軍事的に競争できる産業化、あるいは国民を広汎に動員できる大衆性などの点においては20世紀の特質を備えていた。したがって、ソ連は欧米諸国や日本とは異なった手段で第二次産業革命を達成したものと捉えられ、第二次世界大戦後に独立を果たしたアジア・アフリカ諸国にとっては一種の近代化のモデルとして機能した。

アジア諸地域の抵抗と民族運動
ヴェルサイユ条約で、民族自決の原則が決定したものの適用を受けたのは、かつてのロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国に属していた地域のみであり、アジア、アフリカには適用されなかった。これらの地域は、イギリス、フランス、イタリア、日本の国際連盟の常任理事国を務めた4国、およびイギリスに代わって覇権国家となったアメリカが植民地を広く持っていたためだった。

オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立
第一次世界大戦が終了するとオスマン帝国は、解体の危機に瀕した。ヨーロッパ列強の思惑が錯綜したため、帝国の分割は進まなかったものの「大ギリシャ主義」を標榜するギリシャがイギリスの支援を受けて、アナトリアに進出を開始した。また、帝国の関心は自らの地位の保証とイスタンブルの保全だった。また、アナトリアには、「統一と進歩委員会」の最高幹部が海外から帰国して抵抗準備を進めていたが、指導者を欠いており、同時に、アルメニア人・ギリシャ人の独立運動も活発化していた。こうした状況のなかで登場したのが、ケマル・パシャ(後のケマル・アタテュルク)である。帝国政府は、アナトリアに駐留する軍隊が政府を無視して反乱することを恐れたため、1919年5月5日、第9軍監察官に任命した。
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ケマルは、「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成し、東部召集の帝国からの離脱の阻止に成功すると、1919年末に召集された帝国議会をも影響下に入れ、トルコ人が多数を占める地域が不可分であること、カピチュレーションの廃止を骨子とする「国民誓約」を宣言した。とはいえ、この委員会の行動自体、連合国の思惑とは大きくかけ離れていたために、ヨーロッパ諸国はトルコへの介入をはじめた。帝都イスタンブルは3月に占領され、ギリシャ軍はアナトリア内陸部に進出を開始した。帝国政府が議会を解散するにいたり、首都を脱出した議員を中心に、4月23日、アンカラで大国民会議が開催された。その結果、ケマルは議長に選出されると同時に、アナトリアを中心とするアンカラ政府はヨーロッパ諸国と戦い、トルコ独立の維持に尽力することとなった。

1921年、3週間にわたって、ギリシャとアンカラ政府は、サカリヤ川で激戦を展開した。ギリシャ軍を撃退したアンカラ政府は、徐々に各国政府により認知されるようになった。その翌年には、イズミルを奪還することに成功し、独立戦争を完遂した。独立戦争を完遂したケマルにとって、次の障害は、帝国政府だった。セーヴル条約改定のための協議をローザンヌで開催するための招聘状が帝国政府とアンカラ政府のそれぞれに送られた。ケマルは、1922年11月1日の大国民会議の決議において、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制のみを廃止することを決めた。これにより、600年の歴史を誇ったオスマン帝国は終焉を迎え、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタへ亡命した。

ラテン文字の読み書きを教えるケマルローザンヌ条約は、トルコの独立、関税自主権の回復、治外法権の廃止が内容に盛り込まれ、ケマルの指導者の立場は固まった。1923年10月29日、ケマルは、大統領に就任し、現在に至る世俗国家の建設が始まった。ケマルは死ぬまで、大統領の座に君臨し続けたが、トルコを大胆にも西洋化する政策を進めていった。トルコ語のアルファベット表記への変更、イスラームを国教と定めていた憲法の条文の削除、トルコ帽の廃止、姓を持つことの義務化といった内容である。

とはいえ、1911年の伊土戦争以降、第一次世界大戦、ギリシャとの戦争と11年間続いた戦争で、トルコ共和国の民族構成は大きく変化していった。共和国からは、帝国の商業を担っていた集団であるギリシャ人は去り、150万人ほどいたアルメニア人は虐殺を経験し各地へ移住した。250万人の人口が戦争で命を落とした。さらに、帝国の経済的基盤だったバルカン半島のほとんどを喪失し、アナトリアは人口の激減により、経済的にも疲弊していった。疲弊した経済の本格的な再建は、1930年以降、成功しなかった民間企業の育成から国家資本主義へ舵をとることを始まりとする

2009年02月19日

モビルアーマー

モビルアーマー(MOBILE ARMOR あるいは MOBILE ARMOUR: MA)は、アニメ『機動戦士ガンダム』をはじめとする「ガンダムシリーズ」に登場する、架空の兵器の分類の一つ。モビルスーツに類する大型機動兵器であるが、モビルスーツと異なり人型のものは少ない。

「機械仕掛けの巨人」であるモビルスーツよりさらに巨大で強い「機械仕掛けの怪物」として登場、敵の切り札として主人公側を窮地に追い込む展開が多い。
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

世界観によってモビルアーマーの定義が異なるため、各世界観のモビルアーマーについてそれぞれ記述する。

モビルアーマー("MOBILE All Range Maneuverability Offence Utility Reinforcement" 、全領域汎用支援火器)の原点は、ビグロの原型である「MIP-X1」にさかのぼる。MIP社が開発したMIP-X1は、ジオニック社が開発したモビルスーツの原点であるクラブマン (ZI-XA3, MS-01) に敗れ、主力兵器としての地位を獲得できなかった。しかし、人型のモビルスーツは、その高い汎用性により従来の兵器に対し圧倒的な優位を得たが、汎用であるが故に、特定の状況下では十分な能力を発揮できないケースが発生した。その打開策として、あえて人型に限定せず特定の目的(拠点防衛、強襲など)に特化した大型機動兵器の開発が提唱され、MIP-X1が再度見直されることとなり、「モビルアーマー」の名称が与えられて研究が進められた。

モビルアーマーはサイズの制約がモビルスーツに比べて厳しく無い為、高出力のジェネレーターを搭載することが可能であり、それを生かした結果、ビグロの様な高機動・強襲タイプと、ビグ・ザムの様な大型・局地戦タイプの大きく分けて2種類のモビルアーマーが誕生した。また、一年戦争時点では未だ開発段階だったサイコミュについても、関連するシステムそのものがモビルスーツには搭載不可能なほど大きかったため、それらを搭載するニュータイプ専用機はエルメスなどのモビルアーマータイプにされる事が多かった。これらはどれも実戦において、通常のモビルスーツを圧倒する性能を証明したが、大量生産を前提としたモビルスーツと異なり、生産性を無視したモビルアーマーは、結局少数の試作機が完成したにすぎず、量産型とされるビグロですら十数機の生産にとどまったため、戦況に影響を与えることはほとんどなかった。

一方、地球連邦軍では、モビルアーマーという概念がそもそも存在せず、ボールやガンタンク、ジオン公国軍でいえばモビルアーマーの範囲に含まれるような機体でもモビルスーツと呼んでいた。しかしながら連邦軍においても特定の目的(拠点防衛、強襲など)に特化した機体の重要性は認識され、モビルアーマーと全く違ったアプローチにより、収斂進化とでも言うべき機体が開発された。それはGパーツを端とするMSと合体するオプションパーツの開発であり、特にガンダムMAの成功からヒントを得て、Gダッシュパーツ、オーキス(デンドロビウム)、Gディフェンサー、Gクルーザー、ディープ・ストライカーのような様々なパーツプランが計画され、いくつかは実現された。これらは結論としてモビルアーマーの定義を満たしている為、モビルスーツでなくモビルアーマーに分類される事が多かった。

さらに、宇宙世紀0085年頃になると、地球連邦軍は旧ジオン公国軍の兵器の研究を積極的に行うようになり、モビルアーマーの高機動・巡航性能とモビルスーツの汎用・格闘性能を併せ持つ可変タイプの機動兵器の研究も行われ、アッシマーやギャプランなどの可変モビルアーマー (TMA) が誕生した。さらに、グリプス戦役や第一次ネオ・ジオン抗争では、モビルスーツ単独での長距離移動を可能にするためΖガンダムやガザCなどの、モビルアーマー形態に変形できる可変モビルスーツ (TMS) が開発・実戦投入された。これらの可変モビルアーマーや可変モビルスーツは一定数の量産が可能であり、通常の機体に対し奇襲能力と生存能力で優位に立っていたが、当然生産・維持コストは上昇し、また第二次ネオ・ジオン抗争以降通常のモビルスーツの戦闘性能が向上し、さらにはザンスカール戦争以降は無可変での大気圏内飛行能力まで有するようになったため開発の必要性が薄れ、やがて消滅した。

一方、大型・局地戦タイプのモビルアーマーは、?フィールドジェネレーター、各種メガ粒子砲、サイコミュ・システム等の大型兵器を搭載できるという利点から、一年戦争以後も頻繁に作られ、切り札として戦線に投入されたが、その戦闘能力と巨大な外見から敵陣営のエース機に狙い撃ちにされる事が多く、結果、戦場に投入された機体は、ほぼ例外なく撃墜されている。

モビルアーマーは(例外もあるが)その多くが以下のような共通点を持つ。

人型をしていない(より正確には、人型に限定されない)。機体によっては腕などの可動肢さえ持たず、モビルスーツの様なAMBACは行わない物が多い。
平均的なモビルスーツに対してかなり大型である。
高出力ジェネレーターを搭載し、大火力の武装を持つ。装甲も厚くまれにIフィールドジェネレーターをも搭載する。
バーニアの推進力が大きく爆発的な加速ができ、長距離巡航能力も高い。その反面旋回能力は高くないため、敵MSに取りつかれて白兵戦に持ち込まれると意外に弱い。
可変機種においては、移動時はモビルアーマー形態での運用が主となる。

備考
頭字語(アクロニム)やMIP-X1の設定はみのり書房の雑誌「月刊OUT」別冊『GUNDAM CENTURY』(1981年刊)から。ただしこれらの設定は映像作品では使われていないため、映像をもって公式とするサンライズの基準では非公式なものとなる。

もともとはTVシリーズの低視聴率に対する、スポンサー側の意向によるテコ入れ用の「わかりやすい怪物的な敵」として登場させられたものの一つ(当初、ジオンの機動兵器はザクのみの予定)であったという。しかしニュータイプ用などストーリーに大きく係わる設定の機体も登場し、結果的に宇宙世紀世界のメカの世界観を広げる存在となった。TVシリーズに登場したモビルアーマーの設定は、全て富野監督によってラフスケッチ(基本デザイン)が描かれ、これを大河原邦男がクリーンUPする形で決定稿となっている。

未来世紀におけるモビルアーマー
『機動武闘伝Gガンダム』の未来世紀を舞台とする世界観において、モビルアーマーの位置づけは不明であるが、少なくともネオ・ジャパン軍所属のモビルアーマー・ファントマが確認されており、また、デビルガンダムの最終形態(コア)も可変モビルファイターとしてモビルアーマー形態を持つことから、モビルアーマーという概念自体は存在することが分かる。

アフターコロニーにおけるモビルアーマー
『新機動戦記ガンダムW』のアフターコロニーを舞台とする世界観において、明確なモビルアーマーは登場していない。水中用可変型MS・パイシーズ、可変モビルスーツ・スコーピオやガンダムエピオンのモビルアーマー形態などがわずかに確認できるのみである。

アフターウォーにおけるモビルアーマー
『機動新世紀ガンダムX』のアフターウォーを舞台とする世界観においては、モビルアーマーの登場要因や特別な意味づけはなされておらず、宇宙世紀の考え方とほぼ同じ見方である。

アフターウォーの前史である第七次宇宙戦争においてモビルアーマーを実戦投入したのは宇宙革命軍のみである。大戦時のモビルアーマーはモビルスーツに比べて生産数が少なく、大戦末期のコロニー落としにより地球全土が荒廃したアフターウォー世界において、完全な形でなくとも現存自体が奇跡的なほど現存数は少ない。劇中で確認されたのはグランディーネとパトゥーリアのみである。

またモビルスーツは作業用重機として重宝されていた時代でもあり、戦闘用以外に使えないモビルアーマーの需要は少なかった様で、大抵は解体されモビルスーツの改造用パーツになっているのが現状である。ガンダムXの改造の際にモビルアーマーのパーツが使われているのはその一例である。だが、希少性の高さによりパーツ単位でもガンダムタイプと同じく高額で取引されている。また回収したパーツでハンドメイドのモビルスーツやモビルアーマーを製作するバルチャーも少なからず存在する。劇中ではハンドメイドモビルアーマー・エスペランサが確認されている。

第七次大戦後の革命軍では、敵対する地球連邦が壊滅し、疲弊した本土コロニーの維持が最優先であった事もあって、開発は新型モビルスーツ・クラウダに一本化され新規にモビルアーマーの開発は行われていない。一方新連邦では飛行用モビルアーマーガディールを少数ではあるが量産している。こちらは革命軍のように大型機動兵器としてではなく、通常の航空戦力として開発されたものである。

正暦におけるモビルアーマー
『∀ガンダム』の正暦を舞台とする世界観においては、ウォドムがモビルアーマーと設定されているが、劇中では他のモビルスーツと特に区別されていない。

また、ディアナカウンターが地球帰還後、ロストマウンテンで発掘した可変モビルスーツ「ムットゥー」をハリー・オード大尉がモビルアーマータイプと言及したことから、正暦世界においてもモビルアーマーという概念は存在すると思われる。

コズミック・イラにおけるモビルアーマー
コズミック・イラを舞台とする世界観の『機動戦士ガンダムSEED』におけるモビルアーマーは、「従来の宇宙戦闘機の延長」[1]線上にある「汎用重戦闘機」[2]のことである。コズミック・イラ71年の時点では、メビウス・ゼロ、メビウスが存在する。それ以前の宇宙戦闘機や、武装したスペースポッドミストラルもモビルアーマーにカテゴライズされる。

地球連合軍は、メビウスなど宇宙戦闘用モビルアーマーを艦隊戦においての主戦力としており、攻撃目標は戦艦やコロニーなどであったため、宇宙空間における制宙戦闘やドッグファイトは考慮されておらず、ザフト軍の主力兵器であるモビルスーツに対し、運動性で劣り苦戦を強いられる事になった。その後、地球連合軍もモビルスーツ開発を進め、その支援を目的とした、スカイグラスパーが開発された。

『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』の舞台となるC.E.73年において、地球連合軍は、メビウス・ゼロの発展型エグザスを就役させている。また、従来のような宇宙戦闘機ではなく、必ずしも人型とは限らないがモビルスーツのように付属肢を備えることで格闘能力を持つ機体も出現した。これらは程度の差こそあるがいずれもモビルスーツよりも大型で、陽電子リフレクターを搭載し、陽電子砲を初めとするビーム兵器の攻撃を無力化できる点が共通の特徴である。ゲルズゲーは防御戦術に徹する機体であり、またモビルスーツ「ストライクダガー」の上半身を流用しているため比較的小型であったが、ザムザザー、ユークリッドは非常に大型で、通常サイズのモビルスーツでは実装不可能な大火力を有している。 地球連合軍は大型機動兵器をモビルスーツに代わる次世代の主力兵器とする構想を持っており、大型機動兵器は全て量産されている。

ザフト軍は「モビルスーツ偏重主義」に陥っており[3]、あらゆる戦術戦闘のみならず、本来特務車両や航空機等が担うべき支援任務まで何でもモビルスーツに担わせてしまっている。このため劇中、ザフト側には明示的にモビルアーマーにカテゴライズされた兵器が全く登場しない。『SEED』本編では武装した作業用ポットが僅かに確認されただけである。 大戦末期に核動力モビルスーツ専用増加装備モジュールであるミーティアが開発された。コアユニットこそモビルスーツだが、通常サイズのモビルスーツでは不可能な重武装と加速性を実現した。敵対する三隻同盟に強奪されるという失態を起こすが、ヤキンドゥーエ攻防戦での多大な戦果(被害)を挙げた(被った)。

『DESTINY』ではユニウス条約によりモビルスーツの保有数に制限が設けられた事で、モビルスーツの多機能化の一環として可変モビルスーツの開発の機運が高まり、セカンドステージシリーズ開発の過程で試作された非可変モビルアーマー、プロトカオスを開発した。しかしあくまでも可変モビルスーツにおけるモビルアーマー形態の実証試験機であり試作に終わっている。

ユニウス条約以降、モビルスーツとモビルアーマーとの差が曖昧になりつつあり、ザフトではセカンドシリーズ開発により人型以外の機動兵器をモビルアーマーとカテコライズするのが一般化しつつある。

オーブ連合首長国においてはヤキン・ドゥーエ戦役以前は、技術立国ではあったが、艦艇や、輸送機などを除いて国産兵器の開発をはあまり積極的ではなく、宇宙戦闘艦の搭載する主砲(イズモ級のゴットフリート)、水上戦闘艦の搭載する艦隊防空システム(イージスシステム)、主力戦車(リニアガン・タンク)、制空戦闘機(スピアヘッド)、そして、モビルアーマー(メビウス)も、全て大西洋連邦製のものを採用していた。

が、ヤキンドゥーエ戦役中期以降、同国の国営企業モルゲンレーテ社は秘密裏に地球連合のモビルスーツ開発計画に参加、同時に子会社モルゲンレーテ・エアロテック社は、地球連合加盟各国(大西洋連邦のP.M.P社及びアドバンスド・スペース・ダイナミック社、東アジア共和国のフジヤマ社等)と共に、メビウスの後継機コスモグラスパーの共同開発に参画する。これは政治的な事情によるものであった。

西暦(機動戦士ガンダム00)におけるモビルアーマー
00世界においては、モビルスーツの前世代兵器、若しくは支援機として位置づけられ、特に人革連では戦闘機や戦車といったモビルスーツ登場以前の兵器をモビルアーマーとしてカテコライズしている。

人革連製の水中専用機、シュウェザァイのような大型機動兵器も存在するが、ソレスタルビーイングが出現するまでは三大勢力による冷戦状態で戦場も規模が比較的小さい局地紛争が主だった事もあり、大型機動兵器が投入される局面は少なかった。そのためか作中の大型モビルアーマーは0083のデンドロビウムのようにモビルスーツをコアユニットにした文字通りの「動く鎧≒モビルアーマー」タイプが一般化している。AEUのアグリッサはその代表で、多脚型のモビルアーマーにモビルスーツが接続されている。モビルアーマー単体でも運用可能だが、操縦は主にモビルスーツから行う。ソレスタルビーイングのGNアームズもほぼ同一のコンセプトで、両者共、モビルスーツに追加される装備のプラットホームとしての役割が強い。

国連軍が(というよりアレハンドロ・コーナー個人が)切り札として用いたモビルアーマー・アルヴァトーレもコアユニットにモビルスーツ・アルヴァアロンが鎮座し、操縦もアルヴァアロンから行うが、こちらは前者と異なり、モビルアーマー形態での運用を主としている。モビルスーツはあくまでも緊急時にのみ運用される(ただし、あくまでも本体はアルヴァアロンで、アルヴァトーレは強化パーツ扱いである)。しかしモビルアーマー、モビルスーツ共GNドライヴ[T](擬似太陽炉)を搭載しているためアルヴァアロン単体でも高い戦闘力を有している。

地球連邦平和維持軍設立後は軍縮と、GNドライヴ[T]搭載モビルスーツが主力となったが、小型モビルアーマーと水中専用モビルアーマーにおいては運用が続けられ、民間からの投資によりGNドライヴ[T]搭載の水中専用モビルアーマー、トリロバイトが開発されている。

2009年02月03日

葛城氏(かずらきし)は、古墳時代、大和葛城地方

葛城氏(かずらきし)は、古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる。6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。
ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣・的臣(いくはのおみ)などの祖とされる。襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である(系図参照)。 ただ玉田宿禰については、『日本書紀』允恭紀が襲津彦の孫とする一方、雄略紀では子としていて、互いに矛盾する。 同様に円大臣についても、『公卿補任』は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には葦田宿禰の子であることを示唆した記述があって、やはり互いに矛盾している[1]。これらのことから、諸書の続柄記載は客観的な史実ではなく、伝承に合わせて二次的に造作された疑いが残る。

なお近年、葛城氏を北部の葦田宿禰系(葦田宿禰 ─ 蟻臣)と南部の玉田宿禰系(玉田宿禰 ─ 円大臣)の2系統に峻別して考える見解もある[2]。

始祖・襲津彦の伝承
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた[3]。

しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。このことから、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4・5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

大王と葛城氏の両頭政権
葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。このような婚姻関係の形成は、葛城氏と大王家の政治的連携が、婚姻策によって保たれていたことを意味しよう。

しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。 当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る[4]。

衰退と滅亡
だがこのような両頭政権には、一度両者間の協調関係に亀裂が生じると、次第に崩壊してしまうという脆弱性を内在していた。『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。同時にヤマト政権の朝鮮における軍事的影響力は衰え、対朝鮮政策は苦境に陥った。

允恭天皇の死後は、王位継承をめぐって履中系王統・允恭系王統の対立が激化したと推測される。この過程で葛城氏の円大臣は血縁的に近い市辺押磐皇子らの履中系と結ぶこととなり、允恭系との対立をますます深めたのであろう。允恭系の安康天皇の即位によって劣勢に立たされた円大臣は勢力を回復すべく、次期大王として押磐皇子の擁立を画策したらしい。ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘の韓媛と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した(眉輪王の変)。大王家とも比肩し得る雄であった葛城氏は、雄略とその配下の軍事力の前に、完全に潰え去ることとなったのである。

円大臣が眉輪王を匿った事情は不明としか言いようがない。安康暗殺の背景に葛城氏が直接関与していた可能性も指摘されているが、生前の安康は押磐皇子に後事を託そうとしていたという記述(雄略即位前紀)からすれば、むしろ安康(允恭系)と押磐皇子(履中系)・葛城氏との間には王位継承に関する妥協が成立していて、このことに強く反発した大泊瀬皇子が安康を含む敵対勢力の一掃に踏み切ったと解釈することも出来よう[5]。眉輪王の物語が暗殺の実情を隠蔽する目的の述作であるとすると、眉輪王を匿ったために滅ぼされたという記紀の筋書きにも疑問が生じ、実際の滅亡原因は、大泊瀬皇子のライバルである押磐皇子と連携していたことにあった可能性が高い。

葛城氏2系統論を支持する研究者の中には、一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが[6]、それを示唆するような政治活動が記紀に一切記されていないため、蟻臣などもやはり外戚の押磐皇子と運命をともにしたのではないかと思われる。

子孫
『書紀』などに6世紀末(用明?推古朝)の人物として見える葛城(臣)烏那羅(かずらきのおなら)は、先に滅亡した葛城氏の子孫ともいわれるが、実際には蘇我氏一族の出身であった形跡がある[7]。 小野妹子の生母は葛城氏の末裔とされ、そのことは小野妹子が大和朝廷に仕えることができた一因である。

    系図
孝元天皇 彦太忍信命 屋主忍男武雄心命  武内宿禰

葛城襲津彦  玉田宿禰  円大臣  韓媛
(雄略天皇妃)

〔生江氏〕
〔玉手氏〕
〔塩屋氏〕祖  磐之媛
(仁徳天皇后)  毛媛
(吉備田狭妻)

 葦田宿禰  蟻臣  荑媛
(市辺押磐皇子妃)

 黒媛
(履中天皇妃)

 腰裾宿禰 〔下神氏〕

 戸田宿禰 〔的氏〕

 熊道足禰 〔忍海原氏〕
〔朝野氏〕

   ◇    ◇  菟上足尼 〔穂国造〕

葛城
宮山古墳
掖上鑵子塚古墳
屋敷山古墳
馬見古墳群
葛城一言主神社
極楽寺ヒビキ遺跡
蘇我氏
南郷遺跡群

2009年01月20日

スケートボード(skateboard)

スケートボード(skateboard)は、主に合板製のボードに普通4個の車輪を取り付けた、人間の身長に満たない乗り物。

日本ではスケボーと呼ばれることが多い
ストリートスタイル
その名の通り、街中に存在するもの(ハンドレール、レッジ、ステア、カーブなど)を使用してスケートすること。また、ダウンヒルなどが始まりだと言われている。主に平地で行われるもので、障害物をジャンプで越えたり、ストリートランプを使ったジャンプなどの競技を行う。
フリースタイル
フラットランド(平地)において様々な技を連続的に行い、フィギュアスケートのように演技を行う種目。代表的な技としてキックフリップ・360度スピン・ドッグウォーク・ホッピング・などが上げられる。
バーティカルスタイル
ランページまたはボール、ハーフパイプと呼ばれるところでターンをしながらジャンプ・トリック・ポーズなどを競う。

歴史
スケートパークの出現によりスケートボードのトリックは劇的に変化した。 フラットランドでのスケートトリックは二次元的であり、フラットランドで行われるフリースタイルのトリックはアイススケーターのようであった。 スケートボードパーク内に設置されているランプでの競技により多種多様で三次元的なスケートボードトリックが発明された。 その重要発明の一つとしてアラン"オーリー"ゲルファンドによるオーリーまたはノーハンドエアリアルの発明があげられる(1978年)。 また、バートランプのトリックはストリートスタイルのスケートボーダーに取り入れられていった。

優秀な技能を持つスケータにはスポンサーがつき、シグネチャーモデルのスケートボードや、スケートボードシューズの製造販売が行われた。また、スケートボードテレビゲームの監修やスケートボードシューズの TVCM への出演も行った。

例えば、トニー・ホークは テレビゲームを監修し、MTVミュージック・アウォーズに出演した。また、スティーブ・キャバレロモデルのスケートボードシューズ「ハーフキャブ(Vans)」は有名である。

第一世代(1960年代)
ボード
木製の板にローラースケートのローラー部分を取り付けたスケートボードであった。
競技
「歩道スケート」としてパイロンなどのスラロームを行った。

第二世代(1970年代)
ボード
ボード部にグラスファイバーやアルミニウムを使用したスケートボードが登場した。ボード部の幅は25cmほどであった。飲料水メーカのグラフィティがついたスケートボードなどがあった。
競技・環境
すり鉢状の家庭用プール内で行うスケートスタイルが発生した。スケートボードパークが建設が行われた。

第三世代(1980年代)
ボード
スケートボードのテール部に角度(キックテール)がつけられ、ノーズ部とテール部が区別されていた。又トリック成功率向上を図るため、足にボードが張り付くように滑り止めとして紙やすりのようなグリップテープが張られるとともに、ボード前半部が凹状(コンケーブ)になった。
スケートボード前面 前足部及び後ろ足部にデッキテープが張られ。中央部にはスケートブランドのラベルや、スケートボードのモデル名があしらわれた。
スケートボード裏面 ヘビーメタルのレコードジャケットのようなグラフィティが主に用いられた。
競技
バートランプでのトリックが発展した。
ストリートスタイルの発生 フラットランドにおいてバートランプトリックを応用する試みが行われフラットランドでのトリックが停止したままから、滑走状態からトリックを繰り出すストリートスタイルへと発展した。
環境
スケートボードの宣伝がスケートボード会社により活発になった。スケートボード会社がT-シャツ、ジーンズ等洋服の製造をした。競技用スケートボード靴製造会社が設立された。スケートボード専門誌が設立された。世界的にも広く普及し始めた。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

第四世代(1990年代)
ボード
ボードの大きさは、ほぼ幅187.5×縦800mm(7.5"×32")ぐらいであった。材質はmaple plywoodである。ウィールの大きさは、ほぼ50?56mmぐらいの大きさであった。
ノーズ部のコンケーブがより強くなった。
ストリートスタイルをとるスケートボーダーが多く、構造もストリートトリック向けになっていく。
スケートボード前面 中央部にはスケートブランドのラベルや、スケートボードのモデル名があしらわれたが、トリックの成功率向上のため全部分においてデッキテープが張られた。デッキテープは黒が好まれた。
スケートボード裏面 時代の流行音楽を反映し、ハードコアパンクやオルタナティブロック、ヒップホップ調のグラフィティがあしらわれた。また、有名企業の商標をパロディしたものも流行した。
競技・環境
ストリートスタイルが発展し、文字どおり街頭の建造物を使用したトリックが発展した。スノーボード、BMX などと同一種に分類されエクストリームスポーツと呼ばれるようになった。スケートボードの宣伝がさらに活発になり、ビデオマガジン会社が設立された。

現在
ボード
2輪のスケートボードや多ウィールのものまで派生している。また、デッキを中央で分断し、片足ずつ乗せるものまで登場。
競技・環境
ストリートスタイル普及の結果、街頭の建造物がスケートボーダーにより破壊される問題が発生し、街頭でのスケートボーディングが一部制限され、スケートボードパーク内にストリートセッションを設置したスケートパークが増えている。この結果、スケートパーク内でのスケートボーディングが発展した。